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あ 生きられる

65歳の1日目が静かに終る。
空が白む。
もう起きたのだろうか。隣のうちからひっきりなしのくしゃみが聞こえる。

あとどのくらい生きるのだろう。

生きられる時間。

やり残したことが多すぎてでも少しづつ整理は出来て。

かっこいいばあさんになりたくて。
そのことを考えるとわくわくする。

もう髪の毛を白髪染めで染めることはしない。
早く真っ白になりたくて。

煙草はやめたがネオシーダ―を吸っている。
禁煙パイポも咥えている。

口唇依存。
おしゃぶりください。

白髪のばあさんがおしゃぶりを咥えている。

おしゃぶりください。

白髪のロングヘアーをなびかせてどこかの森で三太郎とじゃれあうのだ。

白いドレスを着てワルツを踊る。
少女のように。

確かに私の中には少女がいる。

歳をとればとるほど私は少女になる。

120歳のおしゃぶり咥えた老婆。

日がな一日文章を書く。
日がな一日三太郎を抱く。

外見はどんどん老婆になってこころはどんどん少女になって。

小さく小さくなってミーちゃんになって。
ひまわりの花に座っていたい。

花はいっぱい飾ろうね。
コーヒーがぶがぶ飲もうね。
お砂糖少し。

動物の命頂くのはやめて。

透明になって。
どこまでも透明になって。

あ 生きられる。


たった2枚の絵のように [私史]

信濃町の路面電車の線路は 陽に輝き ピカピカと眩しかった。
私はおじいちゃんに肩車して 駅に向かって歩いていた。
季節はいつだろう。初夏だったような気がする。
おじいちゃんのはげ頭に手を置いて 肩車心地よくゆらゆらと揺れていた。
陽炎がたった。
もう60年以上昔のことだ。
たぶん私は小学校にも行っていない。
4歳か5歳。
路面電車の線路だけがピカピカで 街は貧しかった。
おじいちゃんはげた履いて私を背負いとことこ歩く。
歯のない口でにこにこ笑っているのだろう。
職人だったおじいちゃん。
私の足をしっかり支える手ががっしりしていて心地よかった。
駅前の小さな小さなお菓子屋で ポパイの紙に包まれた チュウインガムを買ってもらった。
大きな風船ふくらませられるしっかりしたチュウインガムだった。
アメリカの味がした。
そこまでしか覚えていない。
幸せな一枚目の風景画。

 

2枚目の風景画はおじいちゃんの死だった。
四畳半の茶の間と八畳の客間の間の暗い六畳間に白い布を顔にかけて静かに眠っていた。
お客さん用のふわふわの布団の上に穏やかに眠っていた。
おばあちゃんと父と母と弟二人が布団の周りで死んだおじいちゃんを見守っていた。
病気で寝込んでいた記憶はない。
ある日突然死んだおじいちゃんがいた。
病院じゃなく長年暮らした家で静かに息を引き取ったのだろう。
そういう時代だった。
脱脂綿かガーゼでおじいちゃんの口に水を含ませた。
おじいちゃんの唇は柔らかかった。
私は死というものを受け入れたのだろうか。
たぶん受け入れたのだと思う。
幼心に。
通夜の記憶も葬式の記憶もない。
そこで記憶は途絶えている。

 

たった2枚の絵のような おじいちゃんの記憶。

おじいちゃんの優しい笑顔だけが今でも私の心に残っている。

もうすぐおじいちゃんに会えるね。

あの笑顔で待ってるね。

一緒にアメリカの味がするチュウインガム食べようね。


もうすぐ満開

去年は厄年かと思われるくらい、人との別れが多い年でありました。
若いころ視てもらった易者さんに50過ぎたら最高の人生になりますよと言われたのに、ちっとも最高にならず、当たり前のように親は死ぬし猫は死ぬし友は死ぬし、50から60まではこれでもかというくらい波乱万丈の10年でありました。

60過ぎたら少しは落ち着くかと思われましたが、いえただ静かな老後を迎えられると思われましたが、とんでもない。
隠居どころか何十年ぶりかにゴールデン街に戻って店をやることになりまして、いえこれも私の選択でありまして、人生、苦労する方へする方へ転がってゆく感じであります。
だって年金貰えるわけもなく、喰わしてくれる男がいるわけでもなく、一人でこの歳になっても自分を喰わせる為働かないわけにもいかず。

この4月で3周年を迎えますが、貯金取り崩して何とか維持しているようなわけで。

9月に芝居がありまして、これがなんとも納得ゆかず、5月ごろから稽古を始めてみましたが、演出と主演を頼んだ昔の男、正直言ってお眼鏡違い。
芝居台無しにしてくれはりました。
演劇学校の発表会ではありませんです。
酒に呑まれて芝居に本気で向き合ったとは思われず、連絡する気もありませぬ。
熱い夏は熱射病。外を歩けばふらふらで、冷房効いてる家の中これまた入れば、鳥肌ものの冷房病。
毎日点滴打ってやっと本番迎えた始末。
散々でありました。

おまけのように、いえ決しておまけではありません。私と長年一緒に暮らした猫さんのののちゃんリリ―ちゃんが7月に続けて死んでしまい、三太郎と私取り残され未だに涙も流せません。

同時進行で進んでいたガガーリンの80年代音源CD、最初に制作おねがいした制作会社、いえライブハウス、いえ私がお願いしたわけではありません。あちらが話に乗ってきたのです。
9月23日、発売記念ライブやる予定で進行していたはずでしたが、ろくにテープを聴いた様子もなくマスタリングに姿も現さず、仕方なく夜中に留守電入れ、朝の8時にマスタリング終わって一睡もせず家に帰ってきた途端、「おまえAKBかジャニーズか!」意味不明の怒鳴りこみの電話。
どう考えてもパワハラで、弁護士に訴えようかと思いました。
うつにはなるはふらふらで、何とか向こうにキャンセルと言わせました次第で。
2度と関わりたくない奴がもう一人出来ました。

心の支えは田口トモロヲ君でした。彼がいなかったら私は立ち直れなかったでしょう。
彼には感謝でいっぱいです。

10月ころから流れが変わり、店も毎日曜日ママ曜日マスターが入ってくれて、ほとんど直感で選んだスタッフですがみんな素敵な表現者で、私も楽になりお店もうまくまわりはじめました。
ガガ―リンのCD発売の件もテレグラフの地引さん、いぬん堂の石戸さん、快く気持ちよく制作進めていただいて、これに尽力してくれたのも田口君。
「だって新子祭りだから」
足を向けて寝られません。
おかげさまで3月9日新宿ロフトにてガガーリンCD発売記念ライブ、最高の盛り上がりで対バンのイキルやケラさんのガンビーズもすばらしく、生きてて良かった楽しい一夜になりました。

あともう一人、なんだかなあと言う感じで関係を断った人もおりまして、これはなんだかなあのままなので連絡する気もありません。
意味不明は意味不明のままです。

去年は本当に色々なことがありました。
たくさんの人と縁を切りました。
でも新たにたくさんの人と縁を結びました。

まだ誰にも言っておりませんが秋には芝居もたくらんでいます。静かな大人の芝居です。

今はとても元気。
何人かのお友達に顔色いいねと言われました。

詩人にもなりました。
これは言ったもん勝ち。
詩人と言えば詩人です。
4月2日ラストワルツで朗読と即興のセッションしました。
音色々は泉邦宏君です。
音と言葉が一つになり、ビリッとくる鳥肌立つような瞬間が何度かありました。

もう一人マルタ君。ラストワルツの店長であり新子の火曜日マスター。
彼が3月9日新宿ロフトを仮押さえしてくれたことにより全ての物事が進み始めました。
ありがとうです。
7月18日も言葉と音のセッションラストワルツ呼んでくれました。
ありがとうです。

いろいろいろいろおろおろおろおろありました。
でも今がよければたぶんよい。

まだ少しのどに小骨が刺さっておりますが、もうすぐ桜満開の春の今宵、私は幸せ者なのであります。

呑み屋のオーナーもやりますよ。
バンドも芝居もセッションもやりますよ。
詩も書きますよ。ルポも書きますよ。

さくら咲くもうすぐ65歳です。

はい棺桶は宝箱です。


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